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自由の意味

私は ずっと言われてきました
私は ずっと我慢してきました


  お姉ちゃんなんだから

    大人なんだから

      嫁なんだから

        母親なんだから


そんな私は(みんなの期待通りの振る舞いをしなければならない)と
そう思うことが当たり前の人生でした


 あなたと出逢う前までは…


あなたは私に ずっと言ってきたね

 「なんで言いたいことを言わない?」
 「言わないことで 誰かが幸せになったか?」
 「自分だけが我慢すればおさまるだと? お前は女優か!?」

 「お前は女優になりたいのか? それとも幸せになりたいのか?」


初めはつからった

(ずっとそうだったのだから 今更変われないよ)
(ずっとあなたは私の味方にはなってくれないんだね)

そんなふうに思う毎日の繰り返し… だった筈なのに…

ある日 昔の自分とは何かが違うことに気付きました

(ずっとそうだったけれど 変わることは出来るんだね)
(ずっとあなたは私の味方でいてくれてたんだね)

あなたと過ごしてきた日々は
いつの間にか私を変えていたのです


あなたのお陰で 私はやっと 言いたいことが言えるようになりました
あなたのお陰で 私はやっと やりたいことがやれるようになりました

これまで自分を縛り付けていたしがらみから解放され
初めて『自由』というものを知りました


 なのに

あなたは どうして 哀しそうな表情(かお)をするの?


「変わったのはいいけど 極端から極端に行き過ぎだ」


私は 気に入らない

「変われと言ったのは あなたじゃない!」
「今の私は やりたいことが自由にやれて充実してる!」
「どうしてそんな 水を差すようなことを言うのよ!」


あなたの最後の言葉は こうでした…

「いきなり極端に行くんじゃなく 真ん中辺りでまず見渡してみようよ」


わたしは やはり気に入らない

変われないことから脱却するには 真逆の『変わる』以外にどうしろと?
変わることがダメだと言うのなら 私はどうしたらいいの?

何もかもが良い方向に進んでいるのに 以前と180度違うあなたの言葉は
もう信じられるものではなくなっていました


わたしの最後の言葉は こうでした…

「結局あなたは 私を否定したいだけなんだ」


そして わたしはあなたとの縁を切りました



わたしを否定する人は もう誰もいない
わたしは自由気ままに やりたいことをやる
そして絶対に幸せになってみせる


それからのわたしは いろいろなことにチャレンジしました
自分から率先して人と係わりを持ち 友達も増えました

自由を得ただけで こんなに幸せになれるなんて
わたしはどれだけ損をしてきたのだろうか…

いえ… そんなことはもうどうでもいい
今が自由なら 今が幸せなら
昔なんて忘れてしまえばいいだけ


でも わたしがそんなふうに変われたのは やはりあなたのお陰
あなたと出逢っていなければ わたしは昔のまま

だから

もう一緒に歩むことはなくなってしまったけれど
あなたには今でも感謝しています

 「ありがとう」



これで このお話はおしまい… ではありません

何故なら 泣いている人が居ることに気付いたから


わたしは自由にやりたいことをやれたから 確かに幸せになれました

けれど その自由にやっていたことが原因で
誰かを傷つけ 哀しませることになっていたなんて…

いくら「そんなつもりじゃなかった」と言い訳をしたところで
起こってしまった事実は なかったことにはならない

そう… わたしは自分のことしか見えていなかったのです

自分の自由を尊重してほしければ 相手の自由も尊重しなければならない
そんなことさえ理解できていなかったのです


「いきなり極端に行くんじゃなく 真ん中辺りでまず見渡してみようよ」

今になって あなたの言葉が重くのしかかってきました
自分のことしか見えていなかったのだから「極端だ」と言われても当たり前
自由の意味を履き違えていたわたしに 優しく教えてくれていたのに…


縛られている制約・ルール・しがらみという枠の中で不服を訴えている

それはある意味 その枠の中で自由に生きているのです

だって そうでしょ?
枠の中で居たら 「縛られていない」ということになります
叱られたり 後ろ指をさされるのが怖いから はみ出そうとしません
いくら不満があろうとも しがらみのせいにするだけで済みます
結局は何ひとつ不自由ではありませんね


なら 言葉通り『自由に生きる』を実践するには
どうするべきなのでしょうか…


自由であれ不自由であれ
誰かを傷つけたり哀しませたりしていい訳はありません

つまり 自分を縛るルールが既に存在していることを『不自由』と呼ぶのなら


   『自由』とは

     自分自身を縛るルールを自分で決めること


自分で自分を縛ることが出来なければ
自由を語る資格はありません

自分で自分を縛るのですから 不満を漏らすことさえ許されません

言いたいことを言うのは自由です
やりたいことをやるのは自由です

ですが その先を見据えた制約がなければ
もはやそれは自由ではなく暴言・暴挙にすぎません


でも わたしがそんなふうに考えられる様になったのは やはりあなたのお陰
あなたと出逢っていなければ わたしは『自由の意味』に気付かないまま

だから

もう一緒に歩むことはなくなってしまったけれど
あなたには今でも感謝しています

 「あなたの真意をわかろうとしなくて ごめんなさい…」


Copyright 氷の翡翠 2020

【解説】
 たとえばこんなエピソードがあったとしたら。。。
※注意事項
 最初に申し上げておきますが、解説用の架空エピソードとして政治、野球、宗教、この3つの中で扱いやすかったのが宗教であったけで、宗教やスピリチュアルを決して否定している訳ではありません。誤解無きよう、お願いいたします。
 宗教(スピリチュアルでもいい)に感化され、お陰で人生が変わって幸せになれた男が居ました。ある日、妹の婚約者の両親が結婚に大反対。その理由はというと、興信所を利用して親戚縁者を調べたところ、男が宗教にドはまり(表立っての活動)していることが発覚したからとのこと。宗教やスピリチュアルが悪い訳ではありません。しかし、そういった類のものにはまりこんでいる人間を毛嫌いする者達も多いという現実があります。妹と婚約者は反対する者達を説き伏せることができず、二人は別れることになりました。

 これはフィクションですが、よくある話でしょうね。宗教やスピリチュアルによって頑張る気力が増え幸せに過ごせる、ものすごく良いことだと思います。ほかの人達も幸せにしてあげたいと、布教活動を行うことも問題ないと思います。
 一方、政治、野球、そして宗教、これらは特にシビアな話題(人付き合いをする上で避けるべき話)であることは一般常識です。布教活動を活発に行っている人の中には、救いや教えを広めることではなく人を増やすことに目的が変わってしまっている者も少なくないため周囲とのトラブルを起こしたりと、妹の婚約者の親御さんとしては反対するのも当然の反応でもあると思います。

 しかし、避けるべき話題であるが故に、恐らく世間の目は婚約者の親御さんの味方になりがちです。ここで考えてほしいのは、素晴らしいと思って布教活動をするにしても、
 ・表に立つのがその男でなければならない理由があったのでしょうか。
 ・なぜほかの人は表に立たないのでしょうか。
ということ。

 男は妹になんと言うのでしょうか。縁談が破断になって妹が泣いていても、宗教の素晴らしさを理解できない婚約者やその親御さんのレベルが低いのだとでも説得するのでしょうかね。妹の幸せのために自分の自由を犠牲にする必要はないかもしれませんが、自分の自由のために妹の幸せを壊す権利があるとは思えません。このエピソードの登場人物に悪者は居ないと思っていますが、こんな結果になる恐れがあることぐらいわかって当然なのに考えようともしなかったのなら、自由という言葉の意味を「何をやっても許される免罪符」と誤解しているとしか私には思えないのです。